もう既に何度か書いておりますが、通説のように
魏志倭人伝の元ネタが張政で無い事は明らかです。
では何か?
これは簡単なんです。
難升米ら倭の一行です。
これも再掲ですね。
生口らを含む難升米ら一行です。
彼等は自国について、そして倭について語ったわ
けです。
それ以外の国は自国では無く遠絶故道理や戸数
が分からない…
ただこれだけの話です
ただ問題なのは、これら一行には邪馬台国出身
者はいない…
これです
ただ卑弥呼が都としている邪馬台国…
言わば現代で言えば東京みたいなものです。
ここについては情報があった。
あと投馬国も…
この二国については後ほどですが、
対海国~不弥国までの出自の人たちが
自国はこうだ!
と言ったのが魏志倭人伝に残されている訳です。
念のためですが、
実際の行程となった末盧国からは、その実際の行
程を元に里数が算出されている訳ですから、末盧
国~対海国間はダブっている事になります。
方向変わって末盧国~不弥国間やたらと里数細か
いですよね?
これは自国の事を魏に話し、相互間の日数が一日
あれは事足りるって事です。
因みに末盧国と伊都国も所要日数は一日です。
実際の行き来は陸路では無く船ですって!
これがあの500里の実態…
ただここを「水行」としてしまいますと、後の「周旋50
00里」の列島と地続きの箇所と矛盾してしまう。
だから末盧国と伊都国間の行き来は実際には陸行
よりも水行の方がはるかに多いにも拘らず、魏志倭
人伝には陸路で書かれている訳です。
魏志倭人伝行程の二つ目
対海国~不弥国間は難升米らが自国について魏に
話した情報が記載されているまた周旋5000里の地
続きである事を示すために、末盧国~不弥国までが
陸路で書かれてある。
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三分割論の2つ目
これは以下の原文から見て下さい
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠
絶 不可得詳」
んで現代語訳
「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず」
まぁどの現代語訳も大筋同じなので、これはウェブから
のコピペです。
大凡魏志倭人伝に現代語訳を載せてある本は皆こん
な感じ…ですよね?
私はこの箇所だけでしたら結構調べたつもりです。
それだけ私にとって難問だったのです。
邪馬台国が九州だろうが、畿内だろうが、どこだろうが
…、と言いますか、どこにしたとしてもこの箇所との整
合性がないのです。
通常の解釈だとこうなります。
「女王国以北は(遠絶では無いから)道里や戸数が略
載出来る。しかしながら(女王国の以北以外の)その
他の傍の国は遠絶だから詳らかにする事が出来ない。」
多少の解釈の差異はあれど、これが普通の解釈…
というかそれ以外の解釈はもう捻じ曲げたものでしかな
いのでは無いでしょうか?
まぁ普通に解釈してそうならば、その様に解釈を進めるし
か無い訳です。
さて、この箇所、繰り返しとなりますが極めて難解でした。
なんとなくなんですが、邪馬台国となると恐らくこの様な
「詳らかに出来ない」
なんて部分はスルーされるのでしょう。
分からんから書かれていないとされている部分を考察し
ても、なんら比定地の参考にはならない…
これまで、いや今現在もそんな摂理が働いているように
思われてなりません。
この箇所、極めて考察の要素が大きいのです。
一先ず二点挙げます。
1つは
「女王国とは?」
2つは
「遠絶とは?」
です。
まず1つ。
女王国について…
ハッキリ言って女王国=邪馬台国とされている方が恐ら
く殆どでは無いでしょうか?
ってかあんまり女王国とはなんぞや?
と考えずに比定地に走っていませんか?
と言いたくなります。
女王国まで12000里…
そんな風に書かれているから女王国=邪馬台国という
観念が支配的に思われるのは私だけだろうか?
若しかしたら女王国に対する言及すらされていない方
も少なくなさそうです。
「里程と関係無いじゃん!」
と思われているかもしれません。
でもそんな事はありません。
極めて密接なのです。
前節?でも書いた通りですが、所謂魏志倭人伝の里程
記事とされている箇所、帯方郡~邪馬台国(放射説な
ら伊都国)までは、一般には悌儁や張政の辿った行程
であるとされています。
そして女王国=邪馬台国としている訳ですよね?
これだと、もうこの箇所と無茶苦茶矛盾する訳です。
まぁ、簡単に言って「遠絶」だからという理由で詳らかに
出来無いのでは無く、単に行程以外の国は分からん!
という事になります。
まぁそこは軽い左ジャブ程度として、女王国=邪馬台国
であったとした場合、当然ながら女王国を邪馬台国と置
き換えて解釈が可能でなければなりません。
これは誰でも分かる論理。
さて、邪馬台国と置き換えた場合、女王国以北は道里や
戸数が略載出来るとされてますから、これでいきますと、
末盧国~不弥国は邪馬台国と接していなければなりま
せん。
これでなければ、魏志倭人伝の記載内容と辻褄が合わ
ないのです。
これは普通に読めば誰もが解釈されるべき点です。
しかしながら、一方で邪馬台国までは放射説なら伊都
国から水行10日、連続説ならさらに遥か彼方に邪馬台
国がある事になり、どう考えてもこれらの国と接してい
るなど到底考えられません。
この事から女王国=邪馬台国という図式は成り立ち
ません。
と、細々と理詰めで書いてきましたが、実はなんの事
はありません。
魏志倭人伝全体を通してみれば、魏帝が卑弥呼を「親
魏倭王」とし、倭のエリアに狗奴国のように卑弥呼に属
さない国がありながらも、30国の連合国の女王である
卑弥呼を冊封体制の中で倭の王と認めているため景
初二年以降な記載は女王国では無く倭の王が適切と
なり、女王国という表記無いだけです。
つまり魏志倭人伝にある「女王国」とは邪馬台国を指し
ているのでは無く、卑弥呼に属していた30国の連合国
を指している訳です。
因みにですが、
「女王国まで12000里」
の箇所ですね、如何にもここだけ見れば、女王国=邪馬
台国であるかと誤解され兼ねないところですが、なんの
事はありません。
東夷伝にある扶余や高句麗伝の冒頭にある1000里とい
うのと何ら変わりません。
帯方郡~女王国の中心辺りまでが12000里であるとし
ているだけです。
さてさて、女王国=邪馬台国だと辻褄が合わない。
つまり卑弥呼を女王とする連合国が魏志倭人伝にある
女王国。
こけまで、まぁ論理的解釈が既になされてなければ本来
オカシイ。
しかしながらそれがなされていないのが現状なんです。
魏志倭人伝の里程の内容は、三つの要素と周旋5000
里という倭のエリアを示す、これが本論の要素です。
周旋5000里は魏志倭人伝に於いて倭のエリアの総括
であるのは、容易な読解で誰しもが理解されるはずの
箇所。
そこには「列島状だったり地続きであったり」する要素
により倭というエリアが構成されていると記されている
訳です。
これは私独自の解釈では無く、どの訳文を見ても大体
そんな感じで書かれています。
さて、ここで明らかにされるべきは、末盧国~不弥国ま
での陸行で記されている箇所が、この周旋5000里の地
続きとなっている箇所を示している…、この点です。
本ブログでは何回か明示しておりますが、魏志倭人伝
原文に拠れば、当時外国からの来客の場合、伊都国の
港で検閲を行なっていた、とされています。
それならば梯儁も張政も例外なく伊都国の港で検閲を
受けていなければ、次の様に辻褄が合わないのです。
港で検閲をするために、わざわざ末盧国から陸路で50
0里進む?
意味不明です。
そう思いませんか?
いいですいいです、今は私だけそう常識的な解釈をして
いたとしても…
でもきっとどこかで論点が変わり客観的妥当性を得られ
る論考に推移してゆくと私は信じています。
当たり前ながら梯儁も張政も伊都国まで船で行っていた
わけです。
この時点だけでも魏志倭人伝の里程が、梯儁や張政が
実際に辿った行程を元にしている、なんていう論拠無き
通説は破綻するはずなのです。
あの末盧国~不弥国まで陸路で書かれているのは、そ
こが地続きである事を示している訳です。
それなのにですね、いつの世も
「邪馬台国はどこか?」
という命題に縛られ続け困惑する解釈が通説としてまか
り通ってしまう訳です。
普通に読めば解釈されるべき・・・
高校レベルの読解力で明らかに出来る箇所はそう解釈
されるべきであり、難しい大学教授レベルの理解不能な
曲解などいらないはずです。
しかしそうはならない。
これは本当に残念ですが、実情のように思えてなりません。
ホント脱線ばかりで申し訳ありませんが、一応三分割論の
1つは終わりです。
○三分割論の1つ
帯方郡~伊都国の「到」は梯儁や張政の行程では無く、難
升米ら倭人の行程である。
また末盧国~不弥国まで陸路で示されているのは周旋50
00里の地続きである記載に起因しているものである。
ここからも梯儁や張政の行程などでは無い
前回の記事のまとめから
邪馬台国の比定地を求める為には何より魏志倭人伝
の里程記事が正当でなければならない
↓
魏志倭人伝の情報源はより倭の情報を正確に把握出
来る人でなければならない
↓
情報源は梯俊か張政である
ここは勝手な推論ですが、こんな 三段論法が何処か
に潜んでいるのでは無いかと思います。
文化の低い倭人の情報では何かしら比定地論争に障
りがある恐らくそういう事なのでしょう。
私の解釈は全く違いますが、周旋5000里は
「張政が倭でいろいろ聞いて考えると……周旋5000里」
と解釈する向きが多いようです。
基本張政である訳です。
ここまでそのように解釈されなければならない訳です。
そして短里で換算し、倭のエリアが狭すぎる故、あーでもないこーでもない(ここら辺
は後ほど)となる訳です。
これなんて何の事は無い、魏の本国で難升米ら倭の
使者からいろいろ聞いて考えると周旋5000里!
ただこれだけです。
張政も考えたのかもしれません。
でもそれが魏志倭人伝に反映されている訳では無いのです。
普通に読解してそこから導かれるのは、本当に普通に
考えて張政では無いんです。
どうにも横道ばかり逸れてしまいすみません。
でもここが極めて重要な点として指摘せずにはいられ
ない訳でして、ここを明確にしなければ、あの里程の解
読には至れない訳です。
さて、榎一雄氏が指摘された「到」と「至」の違い。
これは張政の行程が「到」で示されている訳では無く、
その反対で難升米等倭の使者が辿った行程が「到」で示
されている訳です。
魏志倭人伝の内容は張政や悌悛とは関係なく、直
接魏の中央にある情報が元である。
ここが持論の根幹になります。
もう既にこの点から緒論からは大筋で違ってきます。
ただ、普通に書いてある内容を常識から考察すれば
普通ならこのような帰結になるはずです。
しかし、通説的にそうはなっていない!
何故なのでしょうか?
これは私見ですが…
兎にも角にも邪馬台国の比定地論ありき!
これが原因にあるとしか思え無いのですね。
先ず比定地を論じるために、どうしても必要な条件が
あります。
それは
「魏志倭人伝の里程等の記載事項に誤りは無い」
という暗黙の前提条件。
この前提条件が無いと、どこかに邪馬台国を比定し
たとしても、根底から誤りを認めるならば、その比定
地の断定に行き着けな事がい。
つまり比定地ありきならば、先ず魏志倭人伝の内容
に誤りがあってはならない。
これがおおよその文献学的の根底にある、もはや思
想と言っても過言では無い共通の概念ではなかろう
か?
そのように思われるのです。
だから実際の地理と整合性が無ければ「短里」という
単位をつくり、狗邪韓国の「其北岸」は倭の地から見
て北岸、などという曲解が検証されぬまま、まかり通
る現状になってしまうのでしょう。
また沖縄や海外に邪馬台国を持って行く一部の傍流
を除けばですね、不弥国を含めないとしても、松盧国
~奴国の方角は明らかに地理的に見て北東なのに、
魏志倭人伝にある東南という方角相違には眼もくれ
ない。
こんな現状から、ありがちな畿内説の解釈
「投馬国や邪馬台国の南という方角は東に「読み換え
る」」
などという論拠無き言い分がまかり通ってしまう訳です。
過去記事の繰り返しながら、本来苟も文献学的に考察
されるのであれば、複数の史料と照らし合わせて、それ
ぞれの史料批判が行われ、その上には史実を導き出す…
これがあるべき姿であり、恐らく他の歴史分野ではそう
されてきたはずです。
しかしながら魏志倭人伝は違う。
唯一無二の史料のは理解しつつも、史料批判がろくにな
されず、辻褄の合わない点は誰かが曲解し、またその解
釈すら比定地論争という名の下に検証されず定説化さ
れ、百家争鳴の結論ばかりがあれこれ増え続ける。
こんなんで
「魏志倭人伝とはなんぞや?」
という問いに何を答えられるというのでしょう?
話が逸れっぱなしですみません。
ただですね、唯一無二の史料であろうとも、本来なら他の史
料同様、史料批判がなされるべきはずなのです。
そうすれば、私なんかがとやかく言う以前にそもそも魏志倭
人伝は解釈上、梯俊や張政の報告(だから間違い無いとい
う前提)に基づいている、などという定説など生まれてこな
かったでありましょうし、ずっと以前に適正に闇に葬られて
いたはずでしょう。
こうなるべきはずの展開にならないのは、邪馬台国の比定
地ありきに終始し本来されるべき考察がなされていない、こ
の現状に変化が無い事の他は無いと私は確信するのです